君ヲ想フ
「最近、博雅殿には通っておられる姫がおられるそうな。」
そんな事を、晴明は兄弟子の賀茂保憲から聞かされた。
「初耳ですな。」
努めて平静を装うとしている晴明の声が、僅かに震えている。それに保憲は気付いていた。
「なに、噂だ。事実かは知らぬ。」
晴明の微かに狼狽する樣を楽しむように、保憲の口元は笑いを含んでいる。
「博雅殿に直接確かめたらよかろう。」
この男は自分を煽って楽しんでいるな。どうも博雅にも何か吹き込んだらしい。些か面白くない。
「貴方がその噂とやらを何処で聞き及んだかは知りませぬが…何れ博雅には確かめてみましょう。」
あの博雅の事だから心配は無いとは思うが…もし事実ならどうするのだ、おれは…
その機会は割りとすぐにやって来た。
翌日、博雅が何時ものように酒の肴を持参して訪ねて来たのだ。
初夏の心地よい風が微かにそよぎ、庭の薔薇が今を盛りと咲く中、それを眺めながら2人は静かに酒を呑んでいる。
博雅はなんだか落ち着かない気分だった。晴明の周りに張り詰めた空気が漂っている。
「晴明…どうかしたか?何か、怖い顔をしておるぞ。」
「博雅…聞きたい事がある。」
「何だ?言うてみよ。」
意を決して訊ねた。
「最近…通っている姫がおるそうだな。」
「なんだ、その事か。」
意を決して訊ねたというのに、あっさり肯定されて思わず博雅を見つめた。
「誤解するな。全然色っぽい話ではないぞ。その姫とは、おれの従妹にあたる方でな。おれの笛が聴きたいと言うから聴かせに行っているだけなのだよ。」
「そうだったか…」
それを聞いて晴明は安堵したが、すぐに思い直した。博雅には他意は無いだろう。
だが、その姫はどうか。笛が聴きたいとは口実だろう。
「博雅、その姫はお前が目的だろう。笛の方は口実で、お前を婿がねにと考えているかもな。」
博雅はきょとん、とした顔で晴明を見つめた。
「まさか、そのような事ある筈が…」
「ない、とは言えぬぞ。」
晴明の淡い色をした瞳が静かに博雅を見つめている。
表面は穏やかだが、その奥には燠火が燻っているような…そんな印象を与えた。
「お前は人の心の奥底を知らぬ…人が心に何を秘めているのか、お前には理解できぬ。」
晴明が僅かににじり寄り、博雅に手を伸ばす。
「晴明…?」
そのまま、顔を近付けて唇を触れ合わす。
博雅は、目を見開いて晴明の唇を受け入れている。晴明が舌を侵入させ、深く絡み合う。
「ん…っっ」
博雅が鼻に抜ける吐息を漏らした。深く接吻ながら、晴明の手が博雅の胸元に掛かる。
博雅の躯が微かに揺れた。そのまま、ゆっくりと上に覆い被さり、床に押し倒していった。
「せいっ…めい…」
博雅が焦った様な声を挙げたが、構わず直衣の襟元を寛げ、滑らかな首筋に舌を這わせた。
「やめろっ…晴明!」
「博雅…おれはお前にこうしたいのだ分かるか?おれが何を思うていたのか。
おれはずっとお前にこうしたかった。前にも言ったな…男が女を愛しいと思う、その気持ちに名を付けるとしたら、それは恋だと。」
博雅を見下ろす晴明の瞳は此迄にない位、真剣な光を帯びていた。
「おれはお前を愛しいと思う…お前に恋焦がれているのだよ。」
晴明の真摯な告白に、博雅は戸惑っていた。どうしていいのか分からずに、ただ身を固くさせている。そうしている間にも晴明の手が衣の内に入り込み、胸の突起に触れた。びくん、と博雅が硬直する。
「いやだっ…!晴明!」
その必死な声に、晴明の手が止まった。博雅の手が晴明の狩衣をぎゅっと掴んでいる。
一瞬、晴明が切なげに博雅を見やり、身を起こした。
「すまぬ…無理強いをする気は無かった。」
博雅もゆっくりと起き上がり、襟元を正す。そして、訥々と確認する様に語り出した。
「晴明…おれは、お前が好きだぞ。ただ、今の様な事は…困るのだ。どうしていいのか…分からぬ。だから…」
「分かっている…博雅。お前のそれとおれのお前に向ける気持ちは違うものだ。お前のは友としてのものだ。」
「だが、晴明…」
博雅が晴明に向き直り、
「おれにも分からぬのだ。お前を好きだとは思う。だが、それは友としてなのか…分からぬのだ。」
博雅の深く澄んだ黒い瞳が真っすぐに晴明を見つめている。
その瞳を覗き込むと吸い込まれそうだった。思わず手を差し伸べようとして、思い留まった。
「博雅…今日はもう帰った方がよい。」
「晴明…」
「頼む…」
そして、博雅に背を向けてしまう。
これ以上、博雅を眺めていると自制が利かなくなりそうだったからなのだが、その為、博雅がどんな顔をしているかは分からなかった。
何処か傷ついた様な、頼りなげな表情をしていた。
「分かった…今日の所は帰るとしよう。」
博雅は、ゆっくりと立ち上がり、晴明に背を向けて立ち止まり、呟いた。
「当分…来るまいよ。」
その言葉に、晴明が振り向いたが博雅は門に向かって歩き出していた。
晴明の手が博雅の背に向かって伸ばされ、途中で止まった。
そして、博雅の姿が門の向こうに見えなくなった。
手を伸ばせば届く距離に居たのに、博雅がひどく遠ざかった様な気がした。
それから何日か経って晴明は内裏に参内していた。調べ物の為に書類を捲っていると、背後に人の気配を感じた。
「保憲さまですか。」
現れたのは、晴明の兄弟子である賀茂保憲だった。
「何やら不機嫌の様だな。博雅殿と何かあったか?」
保憲の表情は読めない。いつも、機嫌が良さそうに微笑んでいる。
「ええ、貴方のいらぬ一言のお陰で博雅とは暫らく会っておりませぬよ。」
なんだか保憲のその表情すら憎らしくなって遂、当たってしまう。
「それは心外だな。おれは噂を口にしただけだぞ。…それはそうと、先程、清涼殿に向かう途中で博雅殿にお会いしてな。」
その保憲の煽る様な言葉に、晴明が書類から目を離す。
「博雅殿も何か元気がなかったな。喧嘩でもしたか?それとも、とうとうものにしたか?」
「人聞きの悪い…私は博雅を強引に自分のものにする事など出来ませぬよ。一度拒まれたら…二度は出来ませぬ。」
保憲が考え深げな表情を作る。
「そういえば…博雅殿もお前の事を気にしていたな。お前がどんな様子かおれに訊ねてきた。とても心配げであったよ。博雅殿もお前を好いてると思うが?」
「博雅は…私を友として好いています。私と同じ好いてるとは違う…」
晴明は、何処か必死な様子で、何かに縋っている様にも見えた。
「手に入らぬ果実は酸っぱい…」
「…何ですかな?それは。」
「なに、只のたとえ話でな。山に住む狐が、ある日高い木の上に美味そうな果実が成っているのを見付けた。だが、その果実がある所はとても高くて手が届きそうにない。
そこで狐はこう考えた…どうせあの果実は採れたとしても酸っぱいに決まっている…」
晴明には、何となく保憲の言いたい事が分かったような気がした。
「中々に興味深い話とは思わぬか?何故、採れない果実を酸っぱいものと思うのか…それは、その果実が欲しくて堪らないからではないのか…」
「保憲さま、何が仰りたいのです?」
「どうしても欲しくて堪らない。だが、手が届きそうにない。なら、あれはどうせ酸っぱいのだと、そう思えばまだ気が楽というもの。」
そこで保憲はちら、と晴明を見やる。
「お主も同じだな。どうせ博雅殿は自分を友としてしか見てはいないのだと、そう思っていればまだ諦めが付くというもの。だが、何故そう思う?何故手に届かぬ果実を酸っぱいと思う?
それは、そう思っていれば自分が傷付かなくて済むからだ。」
そこで初めて晴明の瞳が揺らいだ。一言一句、絞りだす様に語り始める。
「多分…そうなのでしょう。私は、博雅があまりに好きであまりに愛しく想い過ぎて、もはや嫌われては生きていけぬ位に…」
そう語る晴明の表情は、何処か自嘲気味だった。
「…おれがこんな事を言うのも根拠がない訳ではないのだよ、晴明。おれは、時々内裏で博雅殿と出会う事もある。その時博雅殿が語るのはおぬしの事ばかりだ。」
晴明が目を見開き、保憲を見上げた。
「私の…?まさか…」
「お主には信じ難いだろうがな、事実だ。それは嬉しそうに語るのでな、何気なく聞いてみた。博雅樣は余程晴明が好きなのですね、と。…途端に顔を赤らめて黙ってしまったよ。」
段々と晴明の淡い色の瞳に力が戻ってきた。仄かに顔が紅い。
「博雅が?おれを…」
その晴明の様子を楽しげに眺め、保憲が語り掛ける。
「まあ、そういう事だ。後はお主次第だな。おれとて博雅殿は好きなのだ。あの方の望みを叶えてやりたい位にはな。それに、お主に博雅殿は必要だ。あの方がお主をこの世に、ひとの世に繋ぎとめてくれる。
あの方と居る事でお主はひとに戻れるのだよ。」
それだけ告げると、保憲は部屋を出て行った。後には、やや呆然とした晴明が残されていた。
その頃、博雅はある邸へと呼ばれていた。
彼の従妹にあたる姫君が博雅の笛が聴きたいと文を寄越したので、博雅が向かっているのだ。あれから、晴明とは会っていない。
(晴明…どうしておるかな。)
博雅は、此迄にない程の不安を感じていた。晴明と会わないだけでこんなにも揺らぐ自分自身を自覚してもいた。
「…さま、博雅樣?如何なさいました。今日は、なんだか気が乗らぬご様子。」
声を掛けられて、博雅は我に返った。
そうだ、請われて従妹どのに笛を聴かせに来たのだった。
「何でもありません、姫。ただ、少し気掛かりな事がありまして…」
「まあ、何が気掛かりなのでしょう。だからでしょうか、今宵の笛が何だか寂しげに聴こえるのは…」
「失礼致します、姫樣。お殿樣がお見えになりました。」
「まあ、お父君が。では、あの話かしら。」
「あの話…?」
博雅が訝しんでいる間に、博雅の叔父にあたるこの邸の主人が部屋に入ってきた。
「これは、叔父上。」
「よい、博雅殿。そのままに。」
「はい。」
それでも、博雅は叔父に上座を譲り、畏まった。
「博雅殿、そなたと姫は中々仲睦まじげな様で、私も安心した。今日は、その事でそなたに話があるのだ。」
「私に話とは…?一体何のお話でしょうか。」
「うむ。そなたと姫の縁組よ。」
言われた内容に、一瞬理解が出来なかった。
「何と仰せになりました…?縁組?私と姫の…ですか?」
「それ程意外な事でもあるまい。そなたの父君は私の兄だし、血筋も家柄も申し分ない。何より、そなたと姫とは気が合う様だし姫もそなたを好ましく思っている。悪い話ではないと思うが。」
「待って下さい、急にそのような話…私はそのつもりでこちらに伺っていたのではありませぬ。」
「だが、そなたもそろそろ妻を迎えた方が良いと思うが。それとも、誰ぞ想う方がおるのか」
「想う方…?」
叔父の言葉に、博雅は暫し考え込む。何故か、晴明の顔が浮かんだ。
晴明は自分を友とは見ていない、と言った。友ではなく、恋い焦がれているのだと。愛しいと。
その時の、晴明の切なげで苦しそうな、でも何処か優しげな眼差し。
そう、自分を見る時、あの綺麗な淡い瞳は優しい光を湛えていた。今度は、おれが…
「叔父上、その通りです。私には想うひとがいるのです。そのひとは私を想ってくれています。
私を愛しいと、そう言ってくれました。だから、今度は私がそのひとの想いに応えねばならないのです。私も、そのひとを愛しく想っているのですから。…叔父上、姫にも申し訳なく思います。どうか、この話は無かった事に…」
博雅の、真摯な言葉と眼差しに、叔父宮はため息を吐き、仕方がないという様に呟いた。
「そなたがそこ迄言うのなら無理強いはすまい。昔からそなたは一度こうと決めたら譲らぬ所があったからな。しかし、残念だな。そなたを息子に出来る、と喜んでいたのだがな。」
「お許し下さい、叔父上…姫にも、申し訳ありませぬ。」
叔父の邸を辞した博雅は、その足で土御門に向かった。
初の続きものです。随分あんまりな箇所で続いてすみません・・・