誰そ彼れ時

 

 

  ある晴れた春の日。

  晴明は、一人、自邸の簀子に座って酒を飲んでいた。

  いつもなら、隣に博雅がいて、二人で飲んでいる筈なのだが、生憎、彼は来れなかった。

  先刻、仕事の報酬にと、いくつか酒と季節のものが届いたので、博雅も呼ぼうと思い、式に呼びにやらせたのだが、彼は熱を出して臥せっているという。
それで、仕方なく一人、季節のものと庭の花を肴に飲んでいたのだ。  

  (味気ないなあ・・・)

   博雅もおらず、一人で飲む酒がこんなに旨くないものだとは。
  その内に、春の陽気に当てられ、その場に寝転がって昼寝を決め込んでしまった。

   どれ位時間が経っただろう。
  ふと目覚めると、辺りは夕闇に染まりかけていた。傾いた夕陽が山の間に沈もうとしている。

  それを見ているうちに、なんだか無性に博雅の顔が見たくなってしまった。

  今頃どうしているか・・・

  熱にうなされてはいないか・・・

  そう思うと矢も盾もたまらず、晴明は立ち上がった。

   その頃、博雅は自邸の奥の寝所で臥せっていた。
  昨夜、月を眺めながら琵琶を弾いていた為、夜風に当たり過ぎたのである。

   (今日は晴明に済まぬ事をしたなあ・・・)

   折角旨い酒があるからと、わざわざ呼びに来てくれたのに。
  早く直して一緒に酒が飲みたいなあ・・・

  そんな事をぼんやり考えていると、唐突に、人の気配を感じた。

   「博雅・・・」
   「晴明・・・!?」

  何時の間に現れたのか、枕元に晴明が座していた。

  「驚かすなよ、晴明・・・いつ来たんだ。」
   「つい今しがたにな。なに、ここの家人にいちいち会うのも面倒でな・・・ちと隠形を施させてもらった。これでおれと、おまえも周りからは気にも留められなくなる。
  「おまえは面倒臭がりだものな。まあいい。よく来てくれた。こんな見苦しいなりですまぬが・・・」

   言って、上体を起こす。

   「起き上がらずともよい・・・寝ていろ。」
  「なあに、熱はもう引いたのだ。丁度退屈していた所だ。」
   「本当か・・・?まだ少し顔が紅いぞ。」

   晴明が、少し覗き込むようにして博雅の顔を見遣る。
  額に手を当てると、まだ少し熱い。

   「ああ、いい気持ちだ・・・」

  博雅が、気持ち良さそうに呟く。熱で火照った額に、晴明のひんやりとした掌の感触が心地よい。
  そんな博雅の様子を、晴明はじっと見ていた。

  博雅は熱の為か、その黒い大きな瞳は潤み、晴明よりも少し色の濃い肌は上気してほんのり色付いていて、汗の為か額の生え際と首筋に寝乱れた髪が数本張り付いていて、どこか色香を漂わせている。

  晴明は、うっかり此処に来た事を後悔し始めていた。
  このまま、こうして博雅に触れていると・・・抑えが利かなくなりそうだった。
  それでも・・・目の前の博雅はどこか頼りなげで。

   「博雅・・・病を治してやろう。」
  「え?」

   博雅が、その言葉に顔を上げると・・・唇に何かが触れた。
  晴明の唇だった。

  博雅が、何が起こったのか分からず、呆然としている間にも晴明の唇は博雅の口を吸い、舌でこじ開けて侵入する。  そのまま少し舌を絡め・・・離れた。

   「せいめ・・・い?」

   やはり何が起きたのか分からず、ただ目を見開いて晴明の名を呼ぶ。
  そんな博雅に苦笑すると、少し体をずらして背後から博雅を抱き締めた。

   「晴明・・・?どうしたんだ一体。何か言いたい事があるのか?」

   晴明は、少し微笑むと、博雅の耳元に口を寄せて囁いた。

  「博雅・・・おまえがいとおしい。」

   そして、身を離す。
  博雅は聞き返そうとして晴明と向き合ったが・・・辺りは既に陽が沈んで薄暗くなっていた為、晴明の顔が見えなかった。
  どんな表情をしているのか、確かめる事も出来ずに、晴明は薄闇の中に消える様に姿を消した。

   「晴明・・・?」

  現か幻か。それさえも判別がつかないようだった。
  或いは、逢魔が刻ともいうこの刻限・・・幻でも見たのか。
  博雅はそう思ったが、ふと、唇に手を遣ってみた。
  晴明の唇の感触が残っていた。触れ合った唇と舌が熱いような気がした。

  晴明は何と言ったか・・・確か、

  「おまえがいとおしい・・・」

   博雅の頬がほんのり熱を帯びたようだった。