千の月の夢

 

 

もうすぐ訪れるであろう春の気配を僅かに感じる夜の静寂に澄んだ笛の音が響き渡る。

土御門小路の晴明邸にて‘博雅は葉双を奏でていた。庭に下りて無心に笛を奏でる

博雅の姿は冴えざえとした月光に照らされ、白く浮かび上がる様だった。

その姿を眺め、笛の音に耳を傾けながら杯を傾ける男が二人。

一人は彼の親友である陰陽師の安倍晴明。そしていま一人はその晴明の兄弟子たる賀茂保憲であった。



杯を傾けながらも目は博雅の姿を追い、全身で葉双の音色を

聴きとろうとするかのような保憲を、晴明は些か皮肉を込めた視線でちらと眺める。

それに気付いた保憲が晴明を見やり、ふ、と微笑んだ。




その微笑は何処か自嘲げで何かを秘めているようでもあった。

「あれから随分経ったのだなあ。」

不意に、保憲がぼそりと呟く。晴明にはその呟きの意味が分かった。

共に、同じ人を想う二人は、同じ時に彼の人と逢っていた。偶然と呼ぶには天は些か悪戯が過ぎる。とも思った。

 

それは、保憲が元服を終え、賀茂家の嫡子としての責任を負い始めた頃。

晴明と博雅に至っては元服もまだの童の頃。

父であり、当時陰陽頭であった賀茂忠行から初めて仕事を任され、保憲は晴明を伴ってある貴族の邸へ向かっていた。



晴明を伴うよう言いつけられたのである。忠行は晴明の、その際立った才に期待し、

現場を見せておきたかった。保憲も、幼き頃より鬼を見分け、父以上の才を持つと期待されていた。





故に、元服したばかりの保憲に一人で仕事を任せたのだった。




目的の邸に向かう道すがら、晴明は保憲に尋ねた。

「保憲さま、これから向かう邸はどなたのお住まいなのですか?」

「醍醐の帝の第一皇子であられる克明親王さまの邸だ。」

「親王様に呪がかけられているのですか?」

「いや、親王様の長子の若君だそうだ。そうさな、御歳はお前と変わらないときく。」

「それでは、まだ…」

晴明の顔が曇る。自分と変わらない年齢であれば、元服もまだのほんの少年だ。

 

「呪詛とはそうしたものだ。もっとも、おれもこれが初めての仕事なのだがな。





だが、父上の苦労が今になって分かる気がする。」

そう言った保憲の横顔はどこかやりきれなさに満ちて、憤りすら伺えた。

その内に、目的の邸に辿り着いた。

今上帝の第一皇子で藤原家の娘を妻に持つ克明親王の邸は、その身分に相応しく、広大で優雅な邸だった。

門番に話し、中に通されると、ここの主が自ら出迎えた。

「おお、賀茂殿、よくぞ来て下さった。…おや、忠行殿は御一緒ではないのかな。」

保憲の姿を認めるなり、笑みを浮かべながら出迎えてくれたが、保憲の父であり、





陰陽頭の地位にある忠行の姿が見えないと、不審げな眼差しを向けた。

「はい。父は所用で京を出ておりまして、やむなく私が父の代わりに遣わされました。」

これは事実である。忠行はこの時、播磨に出向く用事があった。だが、それは

急を要する程のものではなく、なのに京を留守にしたのは、ひとえに保憲に経験を積ませたかったからに他ならない。


「それはまた…忠行殿もご苦労な事ですな。だが、その嫡男たる保憲殿も幼き頃より鬼を見、




いずれは父の忠行殿以上になるかも知れぬ才を持つときく





忠行殿が


此度の件をそなたに一任したのなら、そなたを信じてもよい、と言う事ですな。保憲殿?」


親王が縋る様に保憲をじいっと見据える。その眼差しに親王の不安を見て取る。

保憲は、人好きのする、暖かい微笑を刻み、


「ご案じなさいますな。父より此度の事を任されたからには、必ず若君をお護りすると


御約束致します。して、若君はどちらに?」


「おお、そうであった。まだ会わせておらなんだ。これ、博雅を呼んでまいれ。」


親王が家人に探させようとするのを、保憲が押しとどめた。



「晴明、若君をお呼びしてきなさい。」


「はい。」


突然、顔を見た事もない若君を連れてくるよう言われても、晴明は動じる事なく

身を翻して駆け出した。


「なんと、保憲殿、あの者は博雅を知っておるのか?」


流石に親王も驚いて晴明の後姿を見遣る。


「いえ、直にお会いした事はございません。」]


「では、何故、居場所を知っているかのように…」


「こちらの若君がお産まれになられた折に、些か不思議な話を耳にしました。


天より言祝ぎを受けた若君であれば、その魂は特殊なものであるはず。晴明には、それが判るのです。」


「ほほう…なんとまあ、聞きしにまさる…」


晴明の噂は、親王にも届いていた。


陰陽寮に不思議な才を持つ者がいる。少女のように美しく、その力は人とは思えず、狐の子である、という噂が。

保憲は、ただ、確信に満ちた眼差しで晴明が去った方向を見つめていた。

 


晴明は、確かな足取りで、ある方向に向かって走っていた。



(多分、あそこ…あの辺りが朧に光っている。)

晴明の目には、人の放つ気の色が見えるようであった。

今、目指す光に似た気は、これまでになく清らかで暖かく、且つまばゆい。

こんな気を持つ人は初めてだった。ここに来る前に聞かされた、

ここの若君の逸話を思い出す。

ここの若君が産まれた時、天よりこの上ない目出度い調べが響き渡ったという

天よりその誕生を言祝がれた御子。だからこその、この気。



広大な庭の一角の茂みを抜けると、目の前が開け、一本の橘の木が目に入った。







その木の根元に誰かが座って笛を吹いている。よく見ると、それは髪を角髪(みずら)に結った


少年だった。目を伏せ、一心に笛を吹いている。晴明は、その音色に衝撃を覚えた。


こんな音色は今までに聴いた事がなかった。晴明自身、未だ賀茂家で修行中の身である為、内裏には入る事は出来ないが、






それでも師の帰りを待つ間、時折、





漏れ聴こえる楽の音や貴族の邸などで聴く楽の中にも、このような笛の音は聴いた試しがなかった。







名手、と表現する以上の何かをこの少年は持っている気がした。



少年が寄り掛かっている橘の木が安らいでいる。晴明にはそう思えた。


もう少し、この笛の音を聴いていたかったが、ここに来たそもそもの理由を思い出し、


意を決して前に踏み込むと、足元に落ちていた小枝がぼき、と音を立てた。


その音に、少年が気付いて顔を上げる。愛らしい顔立ちをしていた。


特に、その大きな瞳が印象的だった。澄み切った黒い瞳が不思議そうに瞬いて晴明を見つめる。







その瞳に、晴明は僅かに怯んだ。



見つめていると、引き込まれそうな、そんな感じを受けたからだった。




「お前、誰?」




少年が口を開いた。威圧感の感じられない素直な口調に、晴明は驚きを隠せない。




このような場合、大抵の貴族の子弟は居丈高に、詰問するように問うてくるものだと思っていた。






それが、こんなに素直に、本当にきょとん、といった表情で問い掛ける



貴族の若君もいるものだな。と晴明は少しだけ感心した。


少年にしてみれば、不思議がるのも無理はない。敢えて言うなら、人間を見た、という


感じがしないのだ。突然、目の前に現れた、同じ年頃の美しい少年。


人というよりは、何かの精かとも思った。


そう、今自分が凭れている橘の花が人に姿を変えたのかと。








それ程に、少年の美しさは際立っていた。自分と同じ男とは思えぬ程に白い肌。



整った顔は少女のように美しく、だが、何処か鋭い印象を与える。


不思議に煌めく瞳は、その色もまた不思議だった。薄らと青味を帯びた淡い茶色。


そんな色の瞳を見たのは初めてで、その若君は飽くことなく晴明を見つめていた。


黒い大きな、吸い込まれそうなその瞳にまっすぐに見つめられて、晴明は何故か


落ち着かなくなった。居心地が悪くなり、些かぶっきらぼうに、





「私は、若君のお父君に依頼を受けてこのお邸に参った者の伴でございます。





主より若君をお連れするよう言いつかってまいりました。お父君がお呼びでございます。」





「父上が?分かった。すぐ行く。」





少年は立ち上がり、駆け出そうとして不意に立ち止まり、晴明に向き直った。




「そう言えば、名前を聞いてなかった。おまえ、名は何と言うの?」





そんな事を聞かれたのも初めてで、晴明は一瞬、目を瞬かせたが、すぐに神妙な口調で、





「私など、若君に申し上げる程の者ではございません。」




若君はそれでは納得しないようだった。




「だって、私はおまえの名を知りたいもの。名で呼ぶ方がいいだろう?」




今度こそ、晴明は面食らった顔をした。変わった若君だ、と思った。




普通、貴族の子弟などは自分より下の身分の者に名を問うたりしない。



人間ではなく、モノと見ているふしがある場合が多い。



そう言えば、と晴明は思い当たった。この若君が天から言祝ぎを受けた事を。


天から愛されているから、この少年の笛の音は心地よく、その心はこんなにも無垢なんだろうか。晴明は丁寧に自分の名を告げた。



「安倍晴明と申します。」





「せいめい…?ふうん、おまえ、お寺の稚児なの?」




その言葉に、晴明のこめかみがひくりと引きつった。




「いいえ、私は陰陽師になるべく修行中の身であります。その為、賀茂家に厄介になっております。








仏門には帰依しておりません。」




「おまえ、陰陽師になるの。そんな呼び方の名だから寺の者かと思った。」



若君は屈託なく笑い、晴明もつられて笑おうとして、ここに来た目的を不意に思い出した。



「それよりも、若君、お父君がお呼びでございます。」



「あ、そうだった。行こう、晴明。」




少し慌てた様子で、若君はくるりと踵を返し、ぱっと駆け出した。



その後を晴明も追う。晴明は、不思議な感覚を覚えていた。



目の前を走る少年からは、邪気といったものが一切感じられない。まさしく、


少年を取り巻く気と同じく、その心も澄み切って、一点の曇りもない。そんな感じを受けた。


そのときの晴明には、この少年がただただ、不思議だった。


少年が駆けていったその先に、彼の父と保憲の姿が見えてきた。



「父上!」



「おお、博雅、何処にいたのだ。また笛を吹いておったのか?」




「はい。あの橘の下で吹くと、ずっとよい心持ちになって、音も辺りに溶け込む様に響くので、




あの場所で吹くのが好きなのです。」








「ほんにそなたは笛が好きよのう…まあ、笛に限らぬがな。それより、こちらは賀茂保憲どのだ。おまえを護って下さる方だよ。」







親王に紹介された保憲が、博雅の前に出て、にっこり笑って挨拶をする。



「お初にお目もじ致します。お父君より若君をお護り致すようにとの依頼を受けました。



それと、こちらは私の弟弟子で、今日は私を手伝う者です。」



保憲が晴明に挨拶を促す。




「安倍晴明と申します。」




晴明の名を聞いた親王が改めて晴明を見やった。




「おお、そう言えばどこぞで聞いた名だとは思ったが…そうか、そなたが早くに鬼の姿を見、狐の子と噂される…」






晴明がその言葉に押し黙る。狐の子、人外の者との呼び名は常に晴明の周りで聴こえていた。



保憲も微かに苦笑している。狐の子と呼ばれる事は陰陽師としての箔付けになると思っているからだ。



「狐の子?でも、晴明は人だろう?」




父の言葉を聴いた博雅が不思議そうに晴明を見つめる。その言葉に、晴明が



弾かれたように顔を上げた。その晴明の様子にも博雅はきょとんとしている。



「だって、どこも狐に見えないよ?人にしか私には見えない。」




晴明の鼓動が高鳴った。今まで、そんな事を言う人間はいなかった。




師である忠行や保憲でさえも、晴明の力を知る故に、完全に人である。とは断言しなかった。



保憲も博雅の言葉に驚かされた。何と素直な若君だろう。そう思った。



微かに微笑んで晴明の肩に手を置き、



「そうですね。この晴明は確かに人です。狐の子と噂が立つのはそれだけこの者の力が



並外れているからなのです。この者の双親は揃って人ですよ。」





今度は晴明が保憲を見上げた。今までそんな事をこの兄弟子は言ってはくれなかった。




師である忠行も。例え、その場しのぎであるにしても。



晴明には、その言葉は戸惑いと、胸を熱くする何かをもたらすものだった。



欲しかった。何よりその言葉が。



夜を待って、祈祷を行う事になった。これまでにも何度か呪詛の兆しはあったという。


最初は、この邸の家人がおかしな振る舞いを見せ始めた。




夜中、突然苦しみだしたかと思うと、博雅の部屋にふらりと赴き、その幼い首を締め上げ




たりした。





博雅が苦しさに喘ぎ、気を失う寸前我に返り、問いつめても覚えていないと言う。


翌日、その家人は死んでいた。喉を何かの獣に噛み切られた様な、無残な死に様だった。


それからも、博雅の世話をする女房が突如、襲い掛かり、喉笛を噛み切ろうとしたり、


博雅の部屋の真下の床下から呪詛の人形が見つかったりした。


博雅もすっかり怯えて、夜には父の部屋で共に寝たりする程だ。それを哀れに思った


親王が賀茂忠行に依頼したのだった。忠行は保憲にこの件を一任した。幼い内に鬼の姿を見、






いずれは父以上になるとも噂されている保憲に、忠行は期待していた。




それに、異能の才を持つ晴明を付けた。この二人がいつか賀茂家の名そのものを


上げてくれる。忠行はそう確信していた。


やがて、陽も沈み、空が夜の色に変化を遂げていく。


博雅の部屋に設えられた祭壇の前に保憲が博雅の脇に座り、祭文を唱えていた。


その背後に晴明も座し、静かに様子を見ている。博雅も保憲の脇で目を閉じ、



手を合わせていたが、その肩が僅かに震えていた。保憲は、安心させる様に




そっと


その肩に手を置く。不思議に、手を置いた箇所から暖かさが流れ込み、体の震えが止まる様な気がした。





その内に、晴明は辺りの空気が変わっていくのを敏感に感じ取った。





保憲もそれを感じたらしく、表情が改まったものになる。



「来るぞ。」と、呟いた。





博雅がひくり、と震える。保憲は驚かさない様に静かに腕の中に閉じ込めた。




晴明はその意図を見抜いた。身固めの術だった。まずは相手の出方を見極めるつもりらしい。




あるいは、怯える博雅を安堵させる為かも知れない。




三人が固唾を飲んでじっと辺りを伺っていると、やがて、何かが結界の周りを


飛び交い始めた。よく見ると、それは黒い犬の姿をした異形のものだった。


保憲も晴明もただただ祭文を唱えていく。


博雅は、初めて見る異形のものに怯え、一層強く保憲にしがみ付いた。


顔を蒼白にさせて体を小刻みに震わせながらも声を上げる事はしない。



ただ、黒い大きな瞳を縋る様に保憲にじっと向けている。その瞳を目にして、保憲は更に強く博雅を抱き締めた。



この幼い若君を何としても護りたい。そんな思いを強くしていった。



異形のものは暫く結界の周りを飛び交っていたが、ふと、その動きを止め、結界のある部屋から出て行った。



保憲と晴明がそれにいぶかしんでいると、近くで断末魔の悲鳴が聞こえた。



「何?」




その悲鳴に驚いた博雅が、思わず声を上げてしまった。保憲と晴明の顔に緊張が走る。

術が破れた。途端、異形のものが結界を破る勢いで迫り来る。




「晴明!」




保憲が叫び、晴明が二人の前に出る。



 

「金剛壁!」





虚空に五芒星を描く。すると、異形が壁に跳ね飛ばされた様にはじき返された。


その間、保憲は呪を唱えている。博雅を更に強く抱き締めながら。

やがて、閉じた目を開き、


「炎光招来!急急たること律令の如くせよ!」



保憲が叫ぶと同時に閃光が煌めき、辺りが白い光に包まれる。その光に



気圧されたかのように異形のものは博雅の部屋を出て行った。恐る恐る様子を伺う博雅に保憲が安心させる様に優しく微笑む。



「若君、もう大丈夫ですよ。式返しと言って、あの異形のものは誰ぞの式ゆえ、主の下に帰って行きました。」




「本当?」



途端に博雅が安心した様ににこっと微笑む。一瞬、保憲はその笑顔に気圧された。


何よりも、その笑顔が輝いて見えた。






(魂の輝きかそれにしても、何という




ここまで純粋無垢な魂は見た事がない。博雅の笑顔を見ている内に、保憲は胸の内がふわりと暖かくなっていくのを感じた。




 

「本当に、何と御礼を申し上げてよいやら保憲殿、真にかたじけない。よくぞこの博雅を護って下さった。








御礼は後ほど届けさせるゆえ、忠行殿にもよろしゅう






保憲の両手を握り、頭を下げて礼を言う親王に、保憲は安心させる様に微笑み、




「親王様、お手をお上げ下さい。私は当然の務めを果たしたまででございます。







父にもよしなに伝えておきましょう。」





そして、その傍らに居る博雅にも、




「では、若君、もう心配はないとは思いますが、何かありましたらまた御呼び下さい。では、私どもはこれにて。」





保憲が踵を返し、晴明も深く一礼して保憲の後を追う。それを見て、博雅は思わず呼び止めた。




「晴明!」





その声に、晴明が弾かれた様に顔を上げた。保憲も立ち止まって振り返る。




また、会える?おまえは、また来てくれる?」





どこか真摯なその表情に、晴明は驚かされる。そして、嬉しく思う。




また会いたいと願うのは自分も一緒だから。





「おお、そうだ博雅、そなたの笛を聴かせて差し上げてはどうだ?保憲殿、この博雅は取分け笛を能くしましてな。





どうか一曲聴いてやってはくれませぬか?」






「おお。それは評判の博雅様の笛を是非とも聴かせて頂きとうございますな。」





「では、博雅、何か一曲聴かせて差し上げなさい。」





「はい、父上。」





やがて、博雅の奏でる笛の音が辺りにゆっくりと響き渡る。





聴く者の心の奥底にまで染渡るような調べ。大気そのものを音として感じ取れるような



そんな錯覚すら覚える。木々の息吹、花の香まで音として感じ取れるような



保憲も晴明も、これ程、聴いていて心地よい音色は初めてだった。



 

その時から、二人の心に源博雅という存在が刻み付けられた。



 

それから、幾つもの歳月を数え、三人は再会を果たす。



だが、博雅の方は二人の存在を覚えてはいなかった。



それでも、博雅はあの時と少しも変わりはなく、屈託なく笑う彼に、真っすぐでひたむきな眼差しに、




保憲も晴明もかけがえのないものを感じていた。




 

「さて、そろそろおれは帰るとしよう。博雅さま、よき笛を聴かせて頂き、有難うございます。」




「もうお帰りですか。つい笛に夢中になってしまって時が経つのを忘れてしまった。」




少しはにかむ様な博雅に保憲の目が細められる。




「お気使いなさいますな。私は貴方の笛が聴けただけで充分満足しております。また、聴かせて下さりませ。」




そう言って、つ、と立ち上がり、門に向かって歩き出す。




「保憲さま、お見送り致しましょう。」




晴明が珍しく、見送る為に共に門まで向かう。




「珍しい事もあるものだ。また旨い酒を呑ませてくれ。それと、博雅さまの笛もな。」




「そう伝えれば博雅はいくらでも笛を奏でるでしょう。」




そのまま少し押し黙り、やがて改まった表情で保憲に向き直る。




「保憲さま、貴方が博雅を想うているのは知っています。出来れば貴方の希みは叶えてやりたい。






貴方には沢山のものを戴いた。貴方には恩義がある。でも、





博雅だけは




晴明なりに、精一杯伝えようとする姿に、保憲は、ふ、と微笑み、その肩を軽く叩く。




「気にするな。おれが勝手に博雅さまを想うているのだ。そうだな、あの時から、





初めて逢った時から博雅さまという呪にかかってしまったのかもな





保憲が、つ、と後ろを振り返る。ひとり、簀子に座するかの人の姿。




その人を心に思い浮かべるだけで、自分の心は暖かさを感じる。



同時に、ちり、と突き刺さるような小さく、鋭い痛みも




「晴明、おれはあの方の笑顔を願っているのだ。おまえがどう思おうとな。




そして、おまえにも幸せになってもらいたいのだおまえには、不憫な事をした、と今も思う。








だから、おまえが博雅さまを得て、おれは良かった、と思う。





あの方が、おまえをひとに戻してくれるのだからな。」




保憲の、包み込む様な笑顔に晴明もふ、と笑みを浮かべる。




「ご心配なく。今では充分に満ち足りておりますよ。博雅は、けして離しません。これからも、共に在りたいと、そう願います。」




晴明の言葉に保憲は笑みを浮かべたまま手を離し、静かに門の向こうに消えていった。




その姿を晴明は見送った。簀子に戻ると、愛しい人が微笑みながら自分を見上げてくる。



その表情に堪らない愛しさが募り、博雅の躯を優しく抱き締める。




「せいめい?」



「静かにこうしていたいのだ。」



保憲に不憫な事をしているのは俺の方だと晴明は思う。それでも、この腕の中のひとを手放す気はないのだ。




晴明が漸く得た、一筋の光。春の陽射しにも似た、この愛しいひとを。



「博雅



晴明の声がしっとりと熱を帯びる。博雅の顎に手を掛け、上向かせて柔らかく


その唇を奪う。



「ん



博雅が微かに吐息を漏らす。


 

もう、離す事は出来ない。この温もりを知ってしまった今となっては。


 

幾千もの月が昇り、幾千もの夢を越えて、漸くめぐり逢えた。


今度こそ、月が見せた夢ではなく、この温もりこそが現実