「あれが三輪山か…」

博雅はほう、と息を吐く。
目前にゆったりと、さりげなくその存在を誇示する様な、なだらかな山。
古来より飛鳥の人々の尊崇を集め、万葉集にも詠まれた、地祇の中心とも言える、大物主神の本拠地。
博雅は、例によって今上の遣いで、今度は奈良を訪れていた。
記紀にも登場するその三輪山の主の話を、晴明から聞かされていた。

「箸墓?」
「ああ。日本書紀に記された、三輪の神、オオモノヌシの妻問いの話でな。」

「ある大王の御世、皇女であり優れた巫女でもあった倭迹迹日百襲媛(ヤマトトトヒモソヒメ)は大物主神の妻となったのだが、この神は昼は見えず、夜だけ訪れてくるので、ある時媛が
「昼にその姿を見たい」と願った処、神は承諾して、「明日の朝櫛笥の中にいます。但し驚かないように」と約束させた。
翌日、その櫛笥を開けてみれば、美しい小蛇の姿があり、媛が驚いて叫び声を上げると、蛇はたちまち人の姿に変わって、約束を破った媛に怒って三輪山へ帰ってしまった。
後悔しても既に遅く、媛は箸で陰(ほと)を突いて亡くなってしまった。
故にその墓を箸墓という。この墓は昼は人が作り、夜は神が作ったという。」

「だから、箸墓か…」
ぼそ、と呟いた博雅の表情は、どんな顔をしたらいいのか判らない、という様なものだった。
僅かに顔を赤らめ、それでも、眉根が寄って渋い顔をしている。
「驚いたか、媛の自決が。」
「う、ううむ…何故、そのような…」
そのような自決など聞いた事がない。
よりにも寄って、自らの秘めた箇所を突くなど…
「…媛は、絶望したのかもな。そう、自分を愛してくれる男を、自分の所為で失った事に…」
「そういうものか…」
呟いた博雅は、ふ、と思いを巡らせた。
もし、自分がこの媛の立場だったら?
自分を愛しいと言い、心だけでなく身体までも愛してくれる、この愛しい男が突然、自分を愛してくれなくなったら?
途端、体から血の気が引いていく様に思えた。
それは、あまりに堪えられない…
「ありえない思いに囚われるな。」
「え?」
「おまえ、もし自分がこの媛の立場だったら、と思っただろう?それは杞憂というものだ。
おれがおまえを手離す事など、ありえん。」
「晴明…」
「それがおれの中の真実だよ、博雅。…信じられないか?」
博雅は、黙って首を横に振った。
見開かれた大きな瞳には、涙が零れ落ちそうに溜まっている。
そんな博雅を、晴明はそっと抱き締める。
博雅も黙って晴明の背に手を廻した。

そして今、自分はその伝承の主である神が祀られている山を望んでいる。
何故、晴明とその伝承の話をしたかと言えば、自分が遣いとして三輪に行く、と告げたからだ。
博雅は今回、三輪山そのものを神体とする大神神社に参拝し、今上に命じられて御物を奉納する為に此処に来た。
三輪の大物主神。「古事記」に登場し、大国主命に力を貸し、共に国作りを手伝った。
自らの妻を求め、人里に降りて美しい乙女を求めたりもした。
その姿は時に変化し、正体が掴めない謎の神。
それでも、国作りの為にはこの神の力を必要とした。
天神(あまつかみ)と地祇(くにつかみ)が交わって今の皇室となったのだから。
初代の神武帝の后はこの大物主神の御子であるという。
博雅は、そんな風に思いを馳せながら、山に分け入っていく。
神域という事を意識してか、山の内と外は空気が違う様に思えた。
大神神社に本殿は無い。
拝殿があるのみで、山そのものを崇める。
博雅はその拝殿に辿り着き、御物を納めた。
此処が神域と意識しているからか、やはり雰囲気が違う。
何処か張り詰めたような清冽さ。
山内の余りにも深い緑は自分までもがそこに染まっていく様な錯覚さえ覚える程だった。
徐に懐から、常に持ち歩いている葉双を取り出し、唇に宛がう。
静かに、音が山の緑に響き、溶け込んでいった。
全体的にゆったりとした曲調ながらも、時折、鋭く清冽な調子が微妙に織り交ざる。
この緑の神域に合わせた様な曲調を博雅は自然に選び、自らも山の内に溶け込む様に、高く遠く、近く深く、天籟の音が神の山に深く溶け込んでいく。

それは、まるで神に捧げるかの様な清冽な「音」。
元々、楽は古来より神への捧げ物であった。
神の目には、神域で天籟の音を紡ぎだす博雅の姿はどう映った事だろう。
天籟の音と、それを奏でるに相応しく思えるその人の姿。
細く長い指が、息を吹き込む肉厚の唇が、極上の音を紡ぎだす。
その度に心持ち伏せられた睫が微かに震え、白い頬は僅かに上気し、その身を纏う気は大気に溶け込む様に静かで。
やがてその身がまるで音と共鳴し、きらきらと光を弾く様に、仄かに眩しく煌く。
その様は、どこか人離れしたものを思わせた。
人の身でありながら、天の高処にまで昇る事を許された、謂わば神さびた雰囲気を、その時の博雅は醸し出していた。

その日も暮れ、博雅が、宿にと定めた源家の別邸に入り、自室でぼんやりと過ごしていた。
寝所には褥が述べられ、そこに横になってはいたのだが、何故か目が冴える。
初めての土地だからなのか、どうも落ち着かない。
ふと、何かを感じた、ように思えた。
何とはなしに、傍に目を向けると、そのまま博雅の体が強張った。
先程まで、人が居なかった筈の其処には、何処から現れたものか、一人の男が佇んでいた。
それは、美しい男だった。
博雅は、友人以外にもこんな美しい男がいるものか、と素直に感心した。
そして、晴明に似ている、とも思った。
容姿ではなく、その身に纏う雰囲気が。
そう、晴明も、この目の前の男も、何処か夜を思わせる。
と、唐突に気配を感じると、何時の間にか男の顔が目前に迫っていた。
驚いて体を後ろにずらすと、男の手が博雅の頬にかかる。
ぼそり、と何かを呟いたようだった。

「見つけた。吾妹となるべきものだ、そなたは…」

博雅がその言葉を確認する暇も与えない様に、男はそっと博雅の唇に己のそれを重ね合わせる。
驚きで薄く開かれた隙間から強引に舌を差し込まれ、激しく口内を貪られ、博雅はそのまま意識を手離した。
男は博雅を愛しそうに抱きかかえ、そのまま、夜の帳に紛れる様に、博雅を抱いたまま、その姿を徐徐に消していった。

漆黒の瞳が真っ直ぐに晴明を見据える。
「せいめい…」
そのたった一言が、晴明には何よりも嬉しかった。
強く博雅を掻き抱き、更に動きを激しくする。
「ああ!せ、いめい…せいめいっっ…っ」
突き上げる度に博雅が何度も晴明の名を呼び、その背に腕を廻して縋りつく。
「博雅…ああ、ひろまさっっ…」
愛しい人が自分の名を呼び、自分を受け入れてくれている。
堪らない歓喜の中、晴明は博雅の内で極まった。
「あ、あああーーっっ…!!」
博雅も、その内に叩きつけられた熱い迸りに身を震わせ、果てた。
「博雅…」
晴明が息を整える博雅を優しく見詰める。
漸く息を整えた博雅が、じっと晴明を見詰めている。
と、不意にその瞳が潤みだした。
みるみるその瞳に涙が溢れ、唇が戦慄きだす。