秋の調べ



何処かで虫が鳴いている。
りぃ、りぃ、と鈴を転がすような羽音が耳に心地よい。
秋が次第に深まっている、晴明邸の庭の木々も徐徐にその姿に錦を纏い、その色が日増しに鮮やかになっていく。
次第に暮れなずんでゆく薄暮の空に浮かぶ、薄い望月を、博雅はうっとりと眺めながら酒を時折、口元に運ぶ。

「虫の音が、なんとも美しいものだなあ。」

しみじみと月を眺め、虫の音に耳を傾けながら博雅が呟く。

「まこと、このような音と月と。酒も進もうというものよ。で、露子姫、今宵はまた如何なされましたか。」

晴明が傍らの露子姫に水を向けると、姫は庭から晴明の方に向き直る。

「ええ、今日は、晴明様のお庭に生えている草を少々分けて頂けないかと思いまして。」

にこりと笑う露子姫は、この日も化粧を施さず、髪を後ろで一つに結び、水干を身に纏った、少年の様な姿で簀に座していた。
歴とした貴族の姫君なのだが、虫が好きという変わり者の姫で、時折こうして晴明の邸に、自分の式である黒丸を連れては訪れて、相談を持ちかけたり虫を見せに来たりする。
晴明も博雅も、この風変わりな姫が嫌いではない。

「ほう、どのような草がお望みですかな?」
「ええ、今、私の庭の蓼の木に揚羽の子がいるのだけど、その蓼の木は小さいのでその内に無くなってしまいそうなの。それで、こちらに蓼の木があればお分けして頂けないかと思って、こちらにお伺いしたのだけど、晴明様、お願出来るかしら。
「成る程。丁度よく我が邸にも蓼の木がありますので、お分け致しましょう。お帰りの時にそちらの黒丸殿にお渡し致しましょう。」
「ありがとう、晴明様。揚羽という蝶は、その卵を産みつけた木の葉しか食べないものだから。今度こちらに
持ってきてお見せするわ。」
「楽しみにしておりますよ。」

そして、変わらず庭をうっとりと眺め続ける博雅に声を掛けた。

「ところで博雅、このように良い夜だ。是非、おまえの笛を聴きたいものだが。」
「お、おう、そうであった。そうよな、このような宵にはさぞ笛の音も心地よく響く事だろう。お、そうだ。露子姫、何か得手とするものはありますか?筝の琴など、宜しければ一手、合わせて頂きたいものだが。」
「まあ、博雅様に合わせるなど、そのような事が出来るのは、その、博雅様がお持ちの葉双の元も持ち主位なものですわ。私などの拙い手ではあまりに博雅様に申し訳ないというもの。琴だとて、父がうるさく申すので
渋々爪弾く程度ですわ。」
「いやいやご謙遜を。先だって、宮中でお父君にお会いしましたが、貴女の琴を大層自慢しておいでだった。どうか一手。」
「まあ、困りましたわね。」

その会話を聞いて、晴明は内心「おやおや」と思っていた。
公達に自分の娘を美しいだの楽が巧いだのと仄めかすのは、その公達を婿がねにと考えている、謂わば対面の段取りの常套手段である。
博雅は皇孫であり、今上の覚えもめでたい高位の貴族である。
北の方とまでいかなくても、妻の一人として通ってもらいたい、という所だろう。
或いは、姫と懇意にしている博雅なら、気心も知れていて、これなら二人共いらぬ気遣いをする必要は無い、
姫も男を通わす事をすんなりと承知するかも知れない、という親心もあるのだろう。
何しろ今の所、露子姫は、婿を通わす事より虫を愛でる事の方に忙しいのだから。
まあ、姫も博雅も全くその気は無いようだし、父君も苦労の絶えぬ事だな、と晴明は内心苦笑する。

「露子姫、こちらにも筝の琴は置いてあります。如何ですか、一手合わせてみては。私も聞いてみたいものです。」
「まあ、晴明様までそのように仰るのであれば…私の拙い手でも博雅様が導いて下さるのなら、お引き受け致しましょう。」
「では早速琴を持って来させましょう。」

晴明がぱちりと扇を鳴らすと、傍らに控えていた式が姿を消し、やがて、筝の琴を携えてしずしずと現れた。
琴を袋から取り出し、露子姫の前に置く。
爪も渡すと、姫はそれを指に嵌め、構えた。

「では、博雅様、お願い致します。」とにっこり笑った。

先程よりも濃さを増した夜空に、望月が冴えざえとした光を降り注ぐ中、ゆったりと優雅な音がしれじれと響き渡る。
露子姫の琴は中々に見事なものだった。それでも博雅と合わせると見劣りしてしまうのだが、それを導く様に包み込む様に、博雅の笛が優しくも典雅な調子で琴の音に合わせていく。
きらきらと降り注ぐ月の光の如く、管と弦が見事に調和し、奏する二人は正に自然にそのままに存在するもののようであった。
やがて曲が一際ゆっくりとしたものになり、余韻を美しく残して、曲は終わった。
半ば目を閉じてそれに聞き入っていた晴明がほう…と深く息を漏らした。
息をする事さえ憚られる程に、二つの音が見事に調和を成していた一時であった。
ここまでの音になるのは、やはり博雅の技量だろう。
しかも博雅はそれを意識してはいない。ただ、自らの望むままに、自然にそれをこなすのだ。

「見事…」

晴明はそれだけを漏らした。
暫し余韻に浸っていた博雅も姫に向き直る。

「いや、露子姫。見事なお手でした。私も常に無く心地よく音を合わせる事が出来ました。」
「まあ、博雅様にそうまで言って頂けるとは。いえ、私の方こそあのような拙い手で恥ずかしく思います。
でも、博雅様と合わせる事が出来て、とても嬉しく思います。」

露子姫は嬉しそうに、博雅ににこりと微笑んだ。
そして、夜があまり更けない内にと、露子姫は晴明から蓼の木の葉と苗を受け取り。黒丸を連れて晴明の邸を後にした。
姫が帰った後も、博雅は晴明と向き合って酒を飲んでいた。

「なあ、晴明。」
「ん?」
「おまえも琴は爪弾くのであろう?どうだ、おれと合わせてみぬか。」
「しかしなあ、おれは姫の様に毎日爪弾いている訳でもなし。おまえに合わせるなど、おれの方が恥ずかしいというものだ。」
「何を云う。幾度かおれに聞かせてくれたではないか。恥ずかしいなどという事があるものか。」
「ふむ。では、おまえがそうまで望むのであれば…」

そして、博雅の笛から始まり、晴明が静かに琴を合わせていく。
それは、異なる虫の音が不思議な調和を生み出す様に、深さを増した秋の宵、その静寂に嫋々と溶け込んでゆく。
りぃりぃ、ころころ。姿もその震わす羽から奏でる音も異なるのに、それらの音が重なると不思議に美しい。
博雅の笛も、晴明の琴も、其々が互いに主張しながらも時に譲り、導き、一つの調和を成してゆく。
その音が、異なる音を其々に奏でる二人の姿こそが、或いは陰陽、太極そのものであった。



「ん、んん…」

月が中天に差し掛かり、次第に深まる秋の夜長の濡れ縁に艶かしい聲が微かに漏れる。
宵の口まで晴明と酒を楽しんでいた筈の博雅は、今や自らの衣を下に敷き、その上で獣のような体勢で深く晴明を受け入れていた。
方や晴明の方はというと、殆ど衣を乱さず、己の指貫の前のみを寛げただけ。
それでも、博雅の腰を掴み、じっくりと深く穿つその表情は情欲に濡れた雄のもの。

「あっ、」

博雅が不意に高く啼いた。
晴明の白い繊手が悪戯に博雅の胸の頂で膨らむものを抓ったのだ。
そうされるだけで博雅は吐息のような甘い聲を漏らし、内に銜え込んだ晴明の雄を知らず締め付けてしまう。

「ふふ、博雅、良い締め付けぞ。悦いのか?」

耳元で殊更声を落として囁くと、博雅の躯がふるりと震える。

「ああ…悦い…もっ、と、突いて…もっと激しく…」
「そうまで強請られては堪らぬな。」

晴明は博雅の腰を強く掴み、更に激しく腰を動かして追い上げていった。

「あん!あ、あ、は、うっ、や、も、もうっ!!」
「…っくっ!」
「やあ!あ、あああーー……」

激しく濃密な情交の後、二人は裸のまま寄りそって褥に潜り込んでいた。

「博雅、姫を迎えるのか?」
「はあ?何を言っているのだ、おまえ。」
「露子姫の父君はそのつもりのようだがな。」
「はは、何を云う。おれのような無骨で面白みのない男では、姫の方で遠慮するだろうよ。」
「露子姫は物事の本質を見抜く目をお持ちだ。今の所は姫の方でその気なならぬだけではないのか…」
「なら、おれもその気には到底なれぬよ。おれは、好いた方としか情を交わしたくはないのだから…」

博雅の黒い珠の瞳が僅かに潤んで晴明を見詰めている。
それに応える様に、晴明は博雅に柔らかく口付けを落とした。
秋の夜長の褥の中、二人の甘い一時は当分終わりを見せる気配は訪れそうもなかった。

          了