ぬくもりと、腕と、あなたと。

秋雨

雨が降る。
冷たい銀糸の雨が、世界を霞ませる。

「雨、か……」

柱に背をあずけ、晴明は奔放な庭が銀色にけぶるさまを眺めて呟く。秀麗な顔に、何もしないでも紅い唇が目に鮮やかだった。

「さて、これでは博雅は来られぬかな」

ひとりごち、くつ、と小さく笑う。
待ち人である源博雅が、この程度の雨で出歩くのをやめるような人間ではないことは、誰よりも晴明が一番知っていた。晴れたときとは様相の違うこの眺めに感じ入りながら、緩々とこの邸まで歩を進めているのだろうと、容易に知れた。

ひとつ、手を叩いた。
すると、どこからともなくひとりの女が現れる。

「時雨。乾いた布を用意しておいてくれないか」
「承知いたしました」

重さをまるで感じさせぬ身のこなしで、女は邸の奥へ消える。それをちらりと見やり、晴明は再び雨の庭に目をやった。

灰色の雲。
そこから落ちる水滴。
鬱々とした眺めであるのに、どこか優しい。

日の光が燦々とふりそそぐ眺めも悪くはないが。
柔らかい明るさと程よい暗さのある雨の日もまた、好ましかった。

――おるかな、晴明。
「博雅さまが、戻り橋を」

先ほど邸の奥に消えた女が現れ、告げる。それを聞き、晴明の紅い唇が綻んだ。



「晴明」
「よう、博雅」

軽い足音とともに現れた博雅に笑みを見せる。

「濡れたろう。寒くはないか」
「寒くはないな。濡れたといっても、霧雨であったし」

霧雨か、と晴明は笑う。確かに大粒の雨ではないが、これを霧雨というのは目の前に座る彼くらいのものだろう。何がおかしい、と博雅が訝しそうに首をかしげた。

「いいや、たいしたことではない。おまえはよい漢だと、そう思うただけさ」
「またそれか。おまえがおれをよい漢といっても、素直に喜べぬ」
「喜べぬか」
「ああ」

ふたりの視線が絡み合い、沈黙が落ちる。
く、と先に声を出して笑ったのは、博雅のほうだった。

「おまえと話をしていると、わけもないのに笑いたくなる」
「そうか」
「ああ、そうだ。禁中ではこうはいかない」

きっと、と博雅は目元に笑みをのせ、晴明を見る。

「おまえの傍が心地良いからなんだろうな」

さらりと、告げられた。
思いがけない言葉に、晴明は出方を見つけられない。ひとつ瞬きをすると、口元を蝙蝠扇で隠すようにして、博雅から視線を外した。

滅多と表情を動かさぬ呪者が、珍しく焦っている。
それを見てとった高位の青年は、くつくつと笑った。

「博雅……」
「ああ、すまない。おまえのそんな顔は滅多に見られぬからよ」

おかしくてな、と今度は躰を二つに折って笑い出す。
それを見つめる晴明もまた、紅い唇に苦笑を浮かべた。

「ひどいな、博雅。あのようなことを言われれば、いかなおれとて落ち着いてはいられぬさ」
「ふぅん……? 睦言を囁いたわけでもないのに、か」

睦言など囁いたことはないだろうに、と博雅の物言いを聞いて晴明は思う。

「おまえの言葉は、おれの呪よりもよほど事象を的確にとらえる。そして……」

心を縛る。
雁字搦めに。

「そして……?」

言葉を切った晴明に、先を促すようにして博雅が首をかしげてみせた。
凛と整った面と、その稚い仕種の不均衡。それが見る者の心に何を呼び覚ますか、博雅はまるで知らない。知る必要もないから、知ろうとしないといったほうが正しいか。
どちらにしろ、晴明が浮かべる笑みと同じ程度には、性質が悪いものである。もっとも、当人は納得するまいが。

「たいしたことではない。気にするな」
「そこまで言っておいて、気にするなとは中々の物言いだな、晴明よ」
「おまえが度々言うことだ」
「おれが?」
「おう。おれにとっては知りたいことでも、おまえは気にするなと言うてはぐらかすであろ」

晴明の言う通りであったので、何とも口答えのしようがなく、博雅は腕を組んで黙り込む。
だが、晴明ほどの呪者が自分の口から何を引き出したいのか、わからない。博雅にとっては重大事であっても、晴明にとっては瑣末なことであろうと思うから、気にするなと言ってしまうのだ。

知り合ってかなりの時が過ぎたが、今もって、稀代の陰陽師が何を考えるのかわからない。
もっとも、自分自身のことですら、全てを知っているわけではない。況して他者とは、この世の何よりも不可思議なものではないか。

この世の成り立ちよりも。
命の来し方行く末よりも。

今、この場に在り、息をして話をし、笑いあい、罵りあい、憎みあい、好きあう諸々の人々。

「人とは、不思議なものだな……」

雨を眺め、さきほどまで浮かべていた笑みを消し去り、博雅が呟いた。
その横顔を見つめ、晴明もまた、視線を雨の庭へと転じる。

「ああ。不思議だな」

答えれば、ふ、と博雅の笑う気配。銀色にけぶる外を眺める彼の顔は穏やかだった。

「稀代の呪者でも、わからぬことはあるかよ」
「それは無論。……いいや、呪者であるからこそ、わからぬのやもな」
「そうなのか」
「そうだな」

たとえば、と晴明は蝙蝠で雨をさしてみせる。

「おれは、雨の……否、水の行く末を、おまえに話すことが出来る」
「雨が降り、地にかえり、そして再び雲となり……?」
「そう。おれに出来るのは、そこまでだ。事象に名を与え、その姿を目に見える形で縛る」

本当は。
言葉などなければ。

「呪がなければ、これは雨ではない」
「……名がなければ、ということか」
「そう。だがな、博雅。雨などという言葉を、獣や草木が必要とするか?」
「……せぬだろうな」

天から水が落ちてくる。
それを、雨が降る、と言葉で縛る。
だが、そんなものを、人ではない生きものたちは、必要としない。

彼らにとっては。
雨は。日の光は。

……命を永らえるための、恵み。
……命を奪い去ってゆく、敵。

「言葉は……呪は、人がこの世に在るからこそ、必要なもの。おれたちが居なければ、雨は降らぬし日の光がさすこともない。言葉で縛ることなく、それを世界は享受するだけだ」

こういうふうに、と晴明は嗤う。

「おれのように言葉を操る呪者はな……。ものごとの要を、見失い易いのさ」

言葉で。
呪で。
事象を。
縛る。

「息をするように、呪で縛ることに馴染むとな……」

雨も。
空も。
心も。

「その姿が、呪の向こう側に霞んでしまって、見えなくなるのさ。ちょうど、この庭が雨の向こうに霞んでいるようにな」

沈黙が落ちる。
どちらも雨の庭を眺めるばかりで、言葉を発そうとはしない。

細い吐息はどちらのものか。雨音に溶けて消えるそれは、切ない響きを帯びてはいないか。

「……それでも、晴明。おれは、おまえの話を聞くのが好きだ。おまえは言葉を弄するけれども、おれはその力に呑み込まれ、さらわれる感覚が好きなのだと思うよ」

本質が見えないとしても。
確かに、呪者の言葉はものごとの要をとらえる。

そうでなければ。
呪など生まれなかった。

「呪者であるからこそ、とおまえは言うけれども……」

雨が降ると。
日が差すと。

「事象の本質を見抜き、しっくりと来る言葉で縛ること……。それは、おまえたちにしか出来まい?」

見えているからこそ。
感じているからこそ。
本質を見抜くからこそ。

「呪を操るということは……。本質を見抜いていることに、ほかならないだろう?」

ゆるりと、博雅が庭から晴明へと、目を向ける。
澄明であるのに、底が見えぬ湖のような、美しさと怖さを秘めた深い色の双眸。それは、呪者である晴明とは違った形で、この世の全てを見ている。

晴明は、言葉を操る。
博雅は、音色を操る。

理に縛られた呪者。
自由な魂を持つ楽人。

「……おまえは、おれの考えもつかぬようなことを言う」

言葉に縛られない。
それなのに。

「何故、そうして聞く者の心を捕らえるようなことを……」

どれほどまでが、考えてのことなのだろう。
どれほどまでが、感じるままのことなのだろう。

自由な言葉。
伸びやかな呪。

「あなたさまは、ほんに罪なお方じゃ」
「……む。何だ、気味の悪い」
「気味が悪いか」
「ああ。ぞくぞくする」

悪寒か、と晴明は笑って問う。博雅が、かもしれない、と笑って返した。

「……日が翳ってきたな」

重たく垂れ込めた雲の色が、先ほどよりも濃くなっていた。雨脚は強くも弱くもならない。
邸のそこかしこに、灯が点る。その燈明の光を受けて、天から落ちてくる水滴が煌いた。

「これから、寒くなる」
「ああ、そうだな」
「雨が雪に変わる」
「……そうだな」

雨が雪に。
銀が白に。

「それでも、水なのだろう……。雨も雪も」

やはり、と博雅は首をかしげる。

「同じ水であるのに、違う名をつけてしまう人というものは、やはり不思議だ」

名がなければ、呼び習わすのに困る。
これがおそらく、名に囚われるということだ。人の世の理に組み込まれるということだ。

「なぁ、晴明。言葉に縛られ、呪に囚われるということは……存外、自然なものなのだな」

歩くよりも。
話すよりも。
息をするよりも。

肌に馴染んで、違和感がない。何の疑念もなく、言葉を弄し、呪を操る。

「そうさ。それと気付いておらぬだけで、人は皆……」

くつ、と蝙蝠のかげで晴明は笑う。その微かな声を耳ざとく聞きつけ、博雅が眉根を寄せる。

「何だ、晴明」
「いいや」
「またはぐらかすかよ」
「おまえがいつもやることだ。見逃せ、博雅」

博雅が、またそれか、とひとつ溜息を零し、顎を引いて上目づかいに晴明を見据えてくる。
幼い童がものをねだるときのような、甘えた表情であるのに、そこには強かさが潜んでいる。意識してのことなのか否か、さしもの晴明にも判じることが出来ない。

「おまえは本当に……」

何故こうも、この晴明の心を捕らえ、縛り、離さないのか。

「そんな顔をすると、襲うぞ」

蝙蝠を口元から離し、にっ、と紅い口唇を吊り上げるようにして笑んでみせる。見る者を怯ませるに足る表情は、幾度見ても見慣れるということがない。
博雅が、引きつったように顔を強張らせる。襲われるのは勘弁願いたいと、口に出すより雄弁にその表情は物語っていた。

「わかった。おれが悪かった。何も訊かぬから、動くな」

その焦った様子に、晴明は愉快でならぬというふうに、肩を震わせて笑う。からかったのか、と恨めしそうな声で博雅が言い、虚脱したように躰の力を抜いた。

「……おまえは、やはりおまえだな……」
「ふふ。そうそう人とは変わりはしないものさ」
「ああ、そうだな。珍しく焦ったり殊勝な顔をしたりと思ったが……」

目元に笑みをのせ、博雅は言う。

「変わってくれるなよ、晴明……。おまえは、そのままで、どうか……」

ひとつ、ゆっくりと瞬きを落とす。
……たち現れたその双眸は、千変万化。

「おれが好ましいと思うたおまえで、居てくれよ……」

敵わない。
決して自分は。
この稀有で自由な人に。

理に縛られるしかない。
心でまわりを感じることが難しい。
言葉を弄するがゆえにこそ地に縫い止められる。

「……ああ。変わらぬさ……」

誓約を。

「おまえも、変わるなよ、博雅」

守られることのない誓約を。

変わらぬものなどないのだと、どちらもよく知っている。それでも、約定を交わしたいと願う。
言葉が儚いものだと、人が居なければ何の意味もなさないと知っているが……誓約を交わしたいと願うのだ。

「……ああ。変わらぬよ……」

雨が降る。
冷たい銀糸の雨が。

秋の終わり。
その雨。
静かな雨音に溶けて消えるのは、儚く甘い、誓言。